偏愛

31年使っている茶碗の話を、聞きに行った

陶芸家のKさんは、三十一年前に三千円で買った飯茶碗を毎日使っている。「割れないから」と本人は言う。けれど食器棚には、割れていない茶碗が他にも三つあった。

午前の光が差す台所。使い込まれた木の卓に、白い飯茶碗がひとつ置かれている
三十一年目の飯茶碗。縁に走る茶色い筋は、貫入に入り込んだ茶渋。

三千円の茶碗

Kさんの台所の水切りかごに、白い飯茶碗がひとつ伏せてある。三十一年前、益子の陶器市で買った。値札は三千円だった。

当時のKさんは陶芸を始めて二年目で、自分の焼いた器はまだ人に出せる出来ではなかった。市の隅の棚から、名前も知らない作り手の茶碗をひとつ選んだ。なぜそれにしたのかは覚えていないという。

割れていない茶碗が、ほかに三つある

食器棚を開けてもらった。同じ大きさの飯茶碗が三つ、伏せて並んでいる。どれも欠けていない。うち二つはKさん自身が焼いたものだ。

なぜそちらを使わないのか聞くと、少し黙ってから答えた。

「割れないから、これを使っている」

自分の焼いたものは使わないのか、と重ねて聞いた。

「自分のは、どこを直したいか先に目に入るので」

三十一年のあいだに、Kさんは二度引っ越している。二度とも食器はほとんど処分した。この茶碗は二度とも段ボールに入って移動した。処分するかどうか検討した記憶はない、と言う。

縁の茶色い筋

茶碗の縁に、内側から外へ向かって茶色い筋が一本走っている。釉薬のひび――貫入に茶渋が入り込んだもので、洗っても落ちない。二十年ほど前からあるらしい。

「これは汚れです」とKさんは言った。そのあと、こう続けた。

「作った人が見たら、たぶん直したくなると思います」

使い始め
1995年
買った場所
益子の陶器市
価格
3,000円
手入れ
洗って伏せるだけ。漂白はしない

三十一年という数字は、この茶碗が丈夫だったことを証明していない。割れていない茶碗が、同じ棚にあと三つある。

Kさんが三十一年かけて作ったのは、毎朝どれを使うか決めなくていい状態のほうだ。

書き手

石黒

編集長。ミハラシの創刊を担当している。

石黒自身の偏愛:26年使っている革の名刺入れ

べつの見方

手間を残したまま使い続けている道具を、もう一つ。

カルチャー 針を落とすという手間は、なぜ戻ってきたのか。

日曜の便り

この取材で書けなかった話を、日曜に送ります。

陶芸家・Kさんへの取材では、記事に入りきらなかったやりとりがいくつかありました。そういうものを週に一度だけ送っています。

LINEで受け取る

いつでも解除できます。

偏愛のほかの記事