人生ストーリー

退職後、パン屋になった元営業マン

三十七年勤めた会社を辞めた翌週、Mさんは製粉所に電話をかけた。うまくいくと思ったからではない。断られたら区切りがつくと思ったからだった。いまも朝三時に起きている。

開店前のパン屋。引き戸の外はまだ暗い通りで、店内では白いシャツの店主が台に向かっている
午前四時二十分。通りより先に、店の灯りがついている。

辞めた翌週に、電話をかけた

三十七年勤めた会社を辞めた翌週、Mさんは製粉所に電話をかけた。パンの修業をしたことはない。取引の実績もない。

うまくいくと思ったからではない、と本人は言う。

「断られたら、それはそれで区切りがつくと思ったんです」

電話に出た人は断らなかった。かわりに、まず十キロ買ってみてくださいと言われた。

最初の二年は、売れなかった

店を開けたのは電話から一年半後。物件は元クリーニング店で、内装のほとんどを自分で直した。

最初の二年、一日の売上が一万円を超えない日が続いた。焼いた数の半分以上が残る。残りは自分と近所で食べた。

営業をしていた頃との違いを聞いた。

「営業は、断られた理由を聞けたんです。パンは何も言われない。ただ残る」

手つきを、七年変えていない

いまは朝三時に起きて、四時前に店に入る。粉を計り、こね、一次発酵の間に前日の受注を確認する。

取材中、生地を折り返す手の動きを何度も見た。回数も角度も、毎回ほとんど同じだった。

「変えると、どこが悪かったのか分からなくなるので」

七年で変えたのは、オーブンの温度設定を二度上げたことと、開店時刻を三十分遅らせたことの二つだけだという。

受注を、もう一度読む

開店の五分前、Mさんはタブレットで受注一覧をもう一度見る。すでに朝のうちに確認しているので、二度目になる。

順番は決まっている。日付の古い順、次に数の多い順。営業だった頃の見積書の確認と同じ順番だと、あとから気づいたという。

開業
2019年(会社を辞めて1年半後)
前職
営業職 37年
一日の作業開始
3時起床・3時50分入店
7年で変えたこと
オーブンの温度 2度/開店時刻 30分
粉をふった作業台の上で、両手を使って生地を折り返している店主の手元
午前五時四十分。折り返す回数も角度も、七年変えていないという。
焼き上がったパンの籠の前で、受注一覧を表示したタブレットを手にしている店主
午前六時五十五分。開ける前に、受注をもう一度読む。

この日の続きは、連載「30年、使っている。」でも取り上げる予定です。

営業だった頃と同じ順番で、Mさんは受注を読む。

変えたのは職業のほうで、手順は持ってきたままだった。

書き手

鈴木

ライター。ものの手入れと修理を追っている。

鈴木自身の偏愛:12年履いている革靴

べつの見方

この現場で使われているエプロンの、十八年。

偏愛 18年洗い続けたエプロンの色を、聞きに行った

日曜の便り

この取材で書けなかった話を、日曜に送ります。

記事に入りきらなかったやりとりや、途中でやめた企画のことを、週に一度だけ送っています。

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