人生ストーリー 勝手に考察
所ジョージは、なぜずっと楽しそうなのか。
この人について語られるとき、ほとんどの場合「楽しそう」という言葉が使われる。それは評価ではなく、見ている側の印象の記述である。その言葉を選ばせている構造を考えた。
本人への取材は行っていない。公になっている姿と、それが受け取られ方をどう作っているかを、編集部が読み解いたものである。
「楽しそう」は、視聴者の側の言葉
この人について語られるとき、ほとんどの場合「楽しそう」という言葉が使われる。面白い、でも、すごい、でもない。楽しそう、である。
これは評価ではなく、印象の記述だ。何かを達成したから使われる言葉ではない。見ている側が、そう受け取っているというだけの言葉である。
だとすれば、問うべきなのは本人のことではなく、その受け取られ方がどう作られているかのほうになる。
説明が、省かれている
受け取られ方を作っているものの一つは、説明の少なさだと思われる。
何かを見せる場面で、なぜそれを選んだのか、いくらかかったのか、どれだけ手間がかかったのかが、必ずしも語られない。順序としては、まず物があり、次に扱っている姿があり、理由はそのあとに来るか、来ないまま終わる。
理由が語られないと、見ている側は理由を推測する。推測している間、その人は評価の対象ではなく、観察の対象になる。
採点されない場所にいるように見える
もう一つは、勝ち負けの文脈から外れて見えることだ。
作ったものが上手いか下手か、売れるか売れないか、という物差しが前面に出てこない。出てこないので、こちらもその物差しを持ち出しにくくなる。
楽しそうに見えるのは、機嫌がいいからではなく、採点されていない場所にいるように見えるからではないか。というのが、この記事の考察である。
反証は、いくらでもある
もちろん、これは外から見えている範囲での話にすぎない。実際に楽しいかどうかは分からないし、説明を省いているのが意図的かどうかも分からない。
それでも「楽しそう」という言葉がこれだけ繰り返し使われるのなら、その言葉を選ばせている構造の側に、何かはある。
楽しそう、という言葉は、見ている側が選んでいる。
選ばせているのは、理由が語られない時間の長さのほうかもしれない。
べつの見方
採点されない時間を、二万時間ぶん持っている人の話。
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