人生ストーリー

五十年ぶりに、ピアノの蓋を開けた。

十四歳でやめて、六十四歳で開けた。あいだの五十年、この家にずっとあった。Eさんは「上手くなるつもりはない」と言う。

居間に置かれた古いアップライトピアノ。蓋が開き、譜面台に色あせた楽譜が一枚立ててある。手前に革の椅子
五十年ぶりに開いた鍵盤。譜面台の楽譜は、十四歳のときのもの。

ずっと、閉まっていた

Eさんの家の居間に、アップライトピアノがある。買ったのは一九七〇年。当時、両親が三十万円ほどで買ったと聞いている。

Eさんは八歳で習い始め、十四歳でやめた。理由は本人にもはっきりしないという。「行くのが面倒になった、くらいのことだったと思います」

それから五十年、蓋は閉まったままだった。上には写真立てと、鉢植えと、電話機が置かれていた時期がある。処分の相談を家族としたことは三回ある。三回とも、しなかった。

「置き場所に困っているわけでもないので、そのままになっていました」

開けたのは、調律の電話がきっかけ

去年の春、調律師から葉書が来た。四十年前に一度だけ来たことのある会社で、廃業の知らせだった。

Eさんはその葉書を見て、蓋を開けた。開けるまでに三日かかったという。

鍵盤は白いままだった。押すと、半分ほどの音が狂っていた。二つの鍵は音が出なかった。

「音が出ないことより、指が動いたことに驚きました」

最初に弾いたのは、十四歳のときの発表会の曲だった。途中までは手が覚えていて、そこから先は思い出せなかった。

上手くなるつもりはない

別の調律師に来てもらったのが去年の六月。費用は二万二千円。「あと十年は使えます」と言われた。

いま、弾くのは週に二回か三回。時間は決めていない。三十分のこともあれば、五分で閉めることもある。

教室に通う気はあるか聞いた。ない、という答えだった。

「上手くなると、上手くない自分が嫌になりますから。いまは、鳴るだけでいいんです」

弾く曲は、十四歳までに習った範囲の中にある。新しい曲は覚えていない。

ピアノ
アップライト(1970年・約30万円)
習っていた期間
8歳〜14歳(6年)
蓋が閉まっていた期間
50年
調律
2025年6月・22,000円
いまの頻度
週2〜3回。1回5〜30分

取材の最後に一曲弾いてもらった。二分ほどで止まり、Eさんは「ここから先は、まだです」と言った。

蓋は開けたままにしてある。閉めると開けるのに三日かかるから、というのが理由だった。

書き手

鈴木

編集者。人と暮らしの取材を担当。

鈴木自身の偏愛:11年替えていない目覚まし時計

べつの見方

やめなかったほうの、二十二年。

偏愛 22年、同じタイルの上に置いている鉢

日曜の便り

この取材で書けなかった話を、日曜に送ります。

Eさんへの取材では、記事に入りきらなかったやりとりがいくつかありました。そういうものを週に一度だけ送っています。

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